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Column



インターネット上の魔術師たち



  インターネット上には自称魔術師たちが居る。
 私もその一人であるが、出来れば他の魔術師たちとは一線を画したいものである。どうも己の知識に振りまわされている感が否めないからである。知識一辺倒と言うか、知識こそ全てと言うか・・・自己の認識すら確立していないのも関わらず、己の蓄えた知識でのみ世界を渡っているとしか思えないのだ。しかも、その知識を生かしていない・・。他者に分け与えようとせず、己の欺瞞の為に私用している。
 そう・・私用しているのだ。
 知識は知識でしかない、その知識をいかにして役立てていくかが問題なのであって、その知識を手に入れた経緯や、代価など問題では無いのだ。なぜ出し惜しみするのか・・が、私には分からない。

  インターネット上にはあらゆる知識が雑多に溢れかえっている・・。
 検索すれば「爆弾の製作方法」でさえ入手出来るのが現状である。しかし、その知識をいかにして有意義に実生活に役立てて行くかは、そこにアクセスしたものに委任されている。インターネット上の知識(情報)は自己責任で・・と言われる由縁である。
 これが上記の自称魔術師達が懸念している部分である。 己の開示した知識を悪用されては困るのだ。悪用したほうも困る事になる。なぜなら、魔術とは爆弾製作と同じ事だと大勢の自称魔術師たちは思っているのである。ならば何故、そんな危険な行為を行なっていると自称するのであろうか?
 知識は持っている・・しかし、それを開示したくは無い・・・。けれども、知識を持っていると言う事は声高々に言い回りたい訳である。知識を持っている事を他者に認めてもらいたいのだ。己がどの地位まで来ているか、それを他者との間において推し量りたいのである。できるだけ己の知識を他者へ分け与える事無く、出来れば他者が持ち得る知識は我が物にしたい・・。だから自称魔術師たちは一定の場所に集まり、知識(情報)収集し、己より格下と思われる者にこれ見よがしに知識をひけらかすのである。しかも、知識を語るのではなく間違っていると指摘するだけである・・。これを欺瞞と言わずして何と言う。

  「爆弾の製作」と同じく危険な行為であるなら、ネット上に公開せずとも良いではないか・・。
 と、私は思うのだ。自己責任で・・などと謳わずとも、公開せねば良いのである。臭いだけ匂わせておいて「あとはご自分で!それも自己責任で!!」と言う自称魔術師のなんと多い事か・・・。しかも、その爆弾がどの様にして爆発するか、そして、どの様に危険であるか・・己が体験していない者も多いのである。知識として「危険なもの」と認識しているに過ぎない。それをあたかも【魔術とは「危険なもの」であると認識できる知識を持つ者】であると、己をひけらかすのである。
 馬鹿馬鹿しいとしか言いようが無い・・。「そんな知識に何の意味が有ると言うのか・・・。」と、私は疑問を持たざるを得ないのである。そんな知識こそ無用の長物であると、私は考える。そんな知識を分け与える時間があるならば、危険でない知識を分け与えるべきである。それも多くの同朋と分ち合うべきであると私は思うのだ。

  魔術の「魔」さえ知らぬ者に教える必要は無い。
 もちろん「魔術師オーフェン」で検索かけて来た者に、クロウリーを教える必要は無い。しかし門戸は固く閉ざすべきでは無い。入り口がどうで有れ、魔術に興味を持った者には手を差し伸べ、歓迎すべきである。
 アニメやファンタジーに憧れている年頃の若者にこそ、魔術の門は開かれるべきなのである。思春期特有の「閉じかけている自己の力」こそが、魔術の門をくぐるに相応しい【持って生まれた素質】を十分に発揮できる期間だからである。ハリーポッターに出てくる「魔術学校」などが良い例である。
 そう、アニメやファンタジーの中にでさえ【魔術の真実】が隠されているのである。

  現代の魔術師たちは「未成年者の行ないに責任が持てない。たとえ成人した者にでさえ、他人の責任まで負う必要が無い。」
 と、考えているのである。もっともな風に聞こえるが、裏を返せば「自分は未熟者だから、自分の事で精一杯」と公言しているに過ぎない。ようは己の行ないに自信が無いのである。このような自称魔術師に教えを請うても無意味である。せいぜい、知識自慢を聞かされるのが落ちである。
 その知識を持ち得ない者からすれば「ありがたい御言葉」であろうが、その程度の知識ならばインターネットで検索すれば出てくるので、特にありがたがる必要は無い。反面教師として見るならば、これほど良い人物は居ない。知識や魔術話しよりも、人間性を見極めてみるとかなり楽しい人物たちである。



現代魔術と伝統的魔術


  魔術とは、自己創造の極みである。
 と、私は思っている。自己啓発や自己創造、願望の実現化などの書籍は多く出回っている。前途洋々な若者にとっては、面白くも無い内容であろうが、魔術を志す者にはお薦めしたい書籍である。どの様にして魔術が実現するのかの概要が、これらの書籍で掴めるからである。

  魔術とはシンボル解読が鍵となる?
 シンボルや呪文、儀式・・それらは潜在意識へのアクセスを試みる事に過ぎないと私は感じている。
 「シンボルを理解しなければ魔術が行なえない、もしくは呪文の発音を正確に唱えなければ・・伝統的な儀式を踏襲せねば、魔術を行なえない、または失敗する・・・。」など伝統を重視し、正しい手順に基づいて、魔術を行う事も大事であろうが、それらはその気になりさえすれば後からついて来るものである。伝統を重視し過ぎる余り、実践に対し二の足を踏んでいては時間が勿体無いと、私は思っている。もちろん、シンボルなどを理解する事で最短距離を進めるならば、それに越した事は無い。それが良かれと思って先人の魔術師たちは、文献に残しているのである。
 けれども、潜在意識へのアクセスは人それぞれであっても良いと思うのだ。魔術にとって肝心なのは潜在意識へのアクセスであってシンボル解読では無いからである。どのような手順であれ、方法であれ、潜在意識に到達できれば良いと私は思う。潜在意識への最短コースが魔術への最短コースであると、私は思っているのである。最短コースを進む事は、議論の的になるだろうが・・。

  魔術とは、ただの思い込みに過ぎないのではないか・・。
 はっきり言おう・・そうだ!・・・と。
 「魔術は思い込みである。」と私は思っている。思い込みこそが全てであって、それ以外には何も無いのだ。ただ、そこまで思い込めるかが問題なのである。思い込む為のシンボルや呪文、儀式なのである。己をトランス状態(潜在意識の中)へと駆り立てる為に、それらを行なっているに過ぎない。超自我、高みの存在、精霊・・どんな風に呼ぼうが、それは潜在意識である。潜在意識を己がどう感じるか、どう視覚するか、どう触れるか、どう認識するかによって呼び名が変わるのである。
 ようは【潜在意識=己】なのである。この辺りを間違えると、とんでもない事になる。回りからは「あの人は気がふれてしまった・・」などと言われる事になるのである。これが魔術を行なう上での【危険性 その一】である。
 
 この【危険性 その一】は自己を認識出来ていない者が陥り易い「最初の罠」である。自分にとてつもない力がついたと勘違いし、その力を持って居ない者との間に壁を作ってしまい、最終的には自己中心的な考え方に至るのである。これは端からしても迷惑な話であり、自己にとっても思わしくない状態である。しかし【潜在意識=己】であるから、誰しもが持ち得る力なのだ。その力が現れているか、否か。または、その力が何処まで鍛えられているか、発展途上か。・・の違いだけである。
 この事については、魔術を行なう(習う)者へ警鐘を鳴らすべきである。

  「神との対話」という良書について
 もし私が、魔術結社を結成するとするならば、この「神との対話」は必読本にするだろう。魔術 理論と実践やヴェールを脱いだカバラなどの文献より先にお薦めする。私がこの本を絶賛するのには訳がある。この本には【神理】が存在するからである。題名からして宗教がらみの本を想像するが、そんな事は無い。神として登場する「もの」は、現在の宗教を本の中で否定している。まあ、キリスト臭さは否めないが・・。
 この本をベースとして事象を考えるならば、すべての事柄がしっくり来るだろう。私の魔術のベースと言っても過言ではない本である。こういった所からして、私の魔術は邪道だとか、亜流だとか言われる由縁である。しかし、本人の私が納得しているのだから、他人にとやかく言われる筋合いのものでは無いと私は思っている。それは自己中心的な考えと言うよりは、道筋の違いと言った方が良い。東洋魔術・西洋魔術の他に私流魔術が有っても良いと思うのである。東洋・西洋ですら、唱えた先人ごとに流儀があるのだ、どの道を歩もうと魔術は魔術である。
 
 ・・・などと、もっともらしい事を書いているが、本音を言うと私自身は他人の書いた文献を重要視していないのだ。昔には昔の魔術、現代には現代の魔術が有って然るべきだと考えているのである。そして、そろそろ現代の魔術を現代人が構築して行く時期だと考えているのだ。

  上級者と初心者
 魔術的力を発現させていない、もしくは魔術を習いかけの者の場合、人は魔術的初心者と呼ばれる。逆に魔術的力が顕著な者、または長年研究している者は魔術的上級者と呼ばれる。その違いを説明出来る者は居るだろうか?しかし、実際にはこの二者間に計り知れないほどの隔たりがある。隔たりが有るべきだと唱える者も居る。
 人間に優劣をつけたがるのは何故だろうか?そもそも優劣をつける問題では無いと私は思うのである。何故なら人間自体、優劣をつけられる存在では無いからだ。何かに秀でている者は、すべてにおいて秀でているとは限らない。その逆も然りである。
 実際問題、力の有る者は威張りたがるものである。また、逆に力の無い者は媚び諂って、その恩恵に授かりたいと思うものである。その上下関係が世界を狭きものへと追いやるのだ。この悪しき上下関係が魔術世界でも続くとなれば、マイナー脱出は、まだまだ先だと言わねばなるまい。