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魔術師 =有名・無名= 魔術師 アレイスター・クロウリー 現代にもし、アレイスター・クロウリーが居たとしよう。さて、現代の自称魔術師達は彼を崇める事が可能だろうか? 奇抜な衣装を身にまとい、破天荒な行動を起こすクロウリーが、インターネット上で大暴れ・・。考えただけでも面白そうである。彼は魔術史に新しい技法を採用した。文献を見ると、当時の彼は魔術師仲間に偏見の眼で見られていたように思う。しかし、現代でクロウリーを神のように崇める自称魔術師も多いようである。 クロウリー全盛の頃は、情報の伝達手段が限られていた・・。書簡によるものか、口伝えの噂といったものである。また、交通手段も限られていた為、非難を口にする者でさえクロウリー本人に直接会った事が無かったかもしれない。もちろんそれは友好的な考え方を持つ者でも、本人と面識が有ったと断言できないのが、悲しいかな事実である。 さて、そのクロウリーが現代においてクローズアップされる理由とは何であろう? 私が思うに、彼の残した文献、または魔術史に出てくる文章のみでしか彼との接点が無いからである。彼がどのような考え方の持ち主であったか、どう言った性格の者であったか、また思惑とは如何様であったか・・などは知る術が無いのである。それでもクロウリー崇拝は現実に起こっている。それは何故か・・・、良くも悪くも有名だからである。 魔術史上に度々その名が登場し、まさに表舞台、最前線を歩いていたかのような錯覚を起こさせるからである。ようは、有名だったから良き指導者に違いないとの錯覚を起こさせるのだ。良き魔術師が良き指導者に成れるかと言うと、そうではないと私は考えている。クロウリーは良き魔術師であったかもしれないが、良き指導者であったかは疑問である。もしかすると、魔術史に名を残していない良き指導者が居たかもしれない・・。また、良き魔術師も居たであろう。ただ、表舞台に立たなかっただけで・・・。 そこで、私は思うのである。【真の実】は、どこにあるのだろうか・・と。 インターネット上の魔術師クロウリー(空想) 現代にクロウリーが居たとしたら・・。クロウリーの事であるからインターネットなどと言う便利なものに目をつけない訳が無い・・・。クロウリーは早速、自分のホームページを立ち上げるだろう。そして、魔術師達が集まりそうなサイトに頻繁に出入りし、掲示板があれば、自分の掲げた理論を得意げに展開するだろう。もしかすると「2ちゃんねる」に個人的スレッドを立ち上げるかもしれない・・。 2ちゃんねる オカルト板【魔術師クロウリーの魔術 理論と実践】・・・。そう考えてみると、かなり面白い展開が期待されそうである。古参の者は新参者クロウリーをバッシングするであろうし、古参の意見に賛成し、今まで賛同してきた者たちも黙ってはいないだろう・・。冷ややかな眼で傍観する者も居るだろうし、新しい理論だと歓迎する者も現れるだろう。 しかし大半の者は認めたがらないのでは無いだろうか・・。自分たちが系統立てて整理し、議論を交わし、実践してきた事柄を横からすっぱ抜かれたら・・良い気分はしないはずである。「ケツの青いヒヨッコが!」と悪態をついたとしても致し方ない事かもしれない。 袋叩きにあっても、それでもクロウリーは自分の理論を構築して行くであろう事は彼の性格からしても想像に固くない。やがて感化される者が現れ、年月が経てば新参者クロウリーも、(色んな意味で)認められるようになり、当初のドタバタ劇を見ていない新たな新参者が増えてくれば、クロウリーの立場も確立されるであろう。そして、その一種独特な個性でもって、頭角をあらわしてくるに違いない・・。そうなってしまえば古参の者も認めざるを得ない状況に置かれるだろう・・・。やがてクロウリーはインターネット上の魔術界に無くてはならない存在となるのである。 【真の実】は一体どこに? 私はアレイスター・クロウリーを尊敬はしていない。しかし、その存在を否定するものでは無い。魔術史上に多大な功績を残した者であると思っている。そして、その情熱、熱意、行動力は感服すべき行ないであると考えている。 私が今、求めているのは【真の実】である。有名どころの魔術師の言葉では無いのだ。もちろんクロウリーの言葉に【真の実】が無いとは言っていない。これだけ他者の尊敬を集める者である・・【真の実】を持っているに違いない。しかし、【真の実】の存在は有名・無名とは関係無いところに存在すると思うのだ。無名であっても【真の実】を大切にもっている者はたくさん居ると考えているのである。かつてのクロウリーがそうであったように・・・。 だからこそ、現代の魔術師たちは【真の実】を見つける眼を持たなければならないと思うのである。有名・無名に左右される事無く、己の眼を鍛える努力をする事が大事だと、私は考えている。 |
妖しいサイト =電波系= 私は啓示を受けている! こう言う風に書くと「ああ・・電波系か・・・お気の毒に。」と思われてしまう事は承知している。本人ですら「イタイな・・」と思う事しばしば・・。けれども実際啓示を受けている者は大勢いるのである。それは神からの啓示であったり、高次元の存在からであったり、何とかと言う精霊からであったり・・、または天使からであったり・・。人によって呼び方は様々であるが、何故か啓示を受けている者が口を揃えたかのように言う事がある・・・。 「啓示を受ける者は、修行をかなり積んだ者か、または潜在的に、その能力を有している者である」・・と。そして、それら以外の者に啓示が降りた場合は「ただの妄想か、低級霊の仕業か、または本当の電波か」・・・と。何故なのだろうか?前者と後者との間に一体何があると言うのか・・。自分に起こった事は他者へは起こらないと思っているのか・・はたまた、自分が認めた者にしか許せないのか・・・。 そう言った発言をする者たちは、何故だか特定の者は認めるのである。自分と同じくらい修行を積んだ者、自分より先に啓示を受けたと公開した者、またはそう言った雰囲気を持つ者・・・。かなり曖昧な判断で認めているとしか思えない。それに、自分は高次元の存在からの啓示であると宣言するのに、他者への啓示は低級霊と決め付ける、その根拠は一体何処にあるのだろうか?自分こそ低級霊からの偽りのメッセージを受け取っていると思わないのだろうか・・・。大丈夫!そのあたりは、ちゃんと言い訳を用意してあるのだ・・自分と似通った者の啓示は認めるという行為でだ。 そして、自分に降りる啓示を真実のものとする為に、自分とはかけ離れた者への啓示は偽りだと決め付けるのである。何事も比較できる対象が無ければ自分を高められないのである。自分は高次、他人は低次である。 また、それはその者たちを取り囲む回りの人間をも巻き込んで、どんどんと膨らんでいくのだ。 「彼は高次元の者とコンタクトを取っているので正しい。しかし、それに対して○○は、啓示を受けていると言いふらすただの電波系だ!」・・と。 この時の回りの者の基準とは、どちらが有名で、どちらが無名(新参者)かである。そして、どちらにつく事が自分にとって有利か・・である。端から見ていて、こんな滑稽な話は無い。 啓示を受ける者は選ばれし存在か・・ 私の答えは「ノー」である。どんな風に呼ぼうとも啓示を与えてくれるのは「潜在意識」である。ようは自己の中の存在である。誰しもが持っている能力なのだから、誰にでも起こる事象である。 では、かなりの修行が必要か?・・・これは一概には言えない。かなりの修行を積まなければ潜在意識に到達出来ない者も居るし、すでに自由に行き来できる者も居るからである。到達する為の期間は人それぞれとしか言いようが無い。 啓示に低級霊・高次元の・・などと、違いが有るか?また、神の声と悪魔の誘惑との区別は?・・・これは自分が決める事である。自己の魂をどこまで信じているかで、低級霊・高次元の者などと勝手に思い込むだけである。また自分が神からと言えば神からの啓示になるし、悪魔からと言えば悪魔からの誘惑となる。神と悪魔を選んでいるのは自分の精神であって自己の魂ではない。自己の魂の状態がよいものであれば「神が人を殺せと命じました。」などという事は無いだろうし、悪魔と言う存在すら作る必要は無いはずである。しかし、時には啓示を疑ってみる事も必要である。自己の魂の具合を逐一観察していると疲れるし、自分の精神においては常に揺れ動いているからである。また、啓示を受けてから行動に移すまでにインターバルを設けることも必要だろう。一度、啓示から離れてみて客観的に観察する・・冷静な眼で見つめなおす事で啓示の真の意味が分かるはずである。 そして【魂を信じる事と、精神が思い込む事は違う。】・・この事だけはしっかりと認識しておく必要があると思われる。 魂と精神と肉体 人間は【魂と精神と肉体】の3要素で成り立っていると、私は信じている。私が推奨している書籍「神との対話」においてその事が書いてあるが、それを読むまでに確信していた事である。神聖なる三位一体と、絡ませて神との対話では書かれているので、少しキリスト臭いとは感じているが、3つの要素と言う点では同じ認識である。 この3要素についてだが、自分自身に当てはめて認識するにはコツがいるだろうと思われる。まあ、簡単な人にとっては簡単なのだろうが、難しく考える人にとっては長い道のりとなるかもしれない。 自分自身に当てはめるとは・・「知識で知る事と体験する事は違う」と言う事である。是非ともこの3要素を体験してみて欲しい。肉体は体験し易いだろう・・精神も何となく分かるかもしれない・・しかし魂は体験するのが難しい・・・私がそうであった。「神との対話」と出会うまで、私は魂の体験がどうしても出来なかったのだ。色んな事を試した、時間もそれなりにかけた・・今まで生きてきた時間の半分以上はかけたであろうか・・・。長い道のりだったと自分でも思う。しかし、「神との対話」を読んで、いきなり道が開けたのだ。今ここで、知識として3要素を語るのは止めておこうと思う。何故なら「体験した事を、知識で語るのは難しい」からである。これは私の力量不足によるものだ。 知識とは受け取る側の認識に左右されるものだから、これを読んだ全ての者に同じ認識を与えるだけの力量が今の私には無いのである。 今一度「神との対話」について 「神との対話」を絶賛している私であるが、本の内容すべてを信じきっている訳では無い。疑問に思うところや、認識の違い・・、受け入れられない個所は存在する。そして本の内容と私の理論及び信念とが相反するところも多分に存在するのである。 この相反する部分は、この本が私の魔術のベースともなっている物なので大きな問題である。自分の中で矛盾が生じてしまっては魔術は成功しないのだ。理論は変える事が出来るが、信念は変えられない・・それは己を否定する事だからである。この事については自己の魂と、自分の精神との葛藤とも呼べるかもしれない。 |